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「聖典講座」第五講 浄土を願うことの意味 平野 修

 

一、はじめに

先回(1993年度)、『現代の聖典』について四回担当させていただいたのですけれども、また続けてということでございまして、また四回お話することになりましたので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

今日、特に取り上げます問題は、先回のときに往生ということにも少し触れていましたけれども、なぜ韋提希という夫人は浄土に往生しようと願ったのかという問題です。先回は、特に触れることはありませんでしたけれども、今回まず最初に浄土を願うという、この浄土ということを少し取り上げていこうかと思います。

 

二、仏陀の覚りの表現

浄土という事柄は、往生ということと関係して考えられており、そしてどう考えてみましても、この世には無い世界というように了解されていて、そのためにどうしても、この世以外の世界というように浄土という世界が考えられていきます。これは最初に断っておかなければなりませんけれども、浄土ということで表されているものは、仏陀の覚りというものである。決して空間的な、あるいは実体的な世界という意味ではないのである。それは、仏陀ということがもつ意味・内容、つまりお覚りです。

仏陀のお覚りというものを表すのに、いろいろな表し方があります。たとえばよく知られています、縁起というのも仏陀の覚りを表す言葉です。あるいは空という言葉もそうですし、無我という言葉もそうです。あるいは涅槃という言葉もそうです。お覚りを表す言葉は非常にたくさんございます。その中にあって、殊にこの浄土という事柄は、仏陀の覚りを表す。お覚りに関係した事柄が、浄土ということで表されているものです。

したがって、今ある世界と他の世界という意味でもなければ、死後の世界ということとも趣が違ってくるかとも思うわけです、お覚りを表すのですから。お覚りということと死後ということとは何の関係もありません。死後世界であるというように思われるのは、浄土という事柄を空間的・実体的に考えようとすることから出てくるとらえ方です。ずうっとそういうように、浄土ということが取り上げられてまいりました。

 

三、常識を吟味する

そういう常識の上で、この『観経』の「序文」で韋提希という女性が、「私は阿弥陀の浄土に生まれたい」と、こう言ったときに、その常識の上で判断すれば、韋提希という女性は、この世界が苦しいし、そして経文にありますように悪人で満ち満ちているし、少しも安穏な生活のできる場所でないから、阿弥陀の世界に行きたいのだと。

そうすると当然そこから、韋提希という人は逃げていったのだ、今ある世界がたまらないからそこを捨てて違う世界に移っていったのだということになります。これは往生ではなくて移行するわけです、移り行くわけです。この世界から苦のない世界に移り行く、というように見ることになりますし、そうすると当然、仏教というのは苦しくなったら、もうどうにもならなくなったら、浄土という世界に入っていくことだ。今流の言葉で言えば、そういう世界に逃避していくことだ、逃げていくことだと、こういう判断になります。

特に現代人である我われは、そんな世界がどこかにあるはずがないのに、ない世界に逃げ込もうというのだから、いよいよ浄土に往生するということは何の足しにもならない。ほんとうにあるというのだったら、そこへ行くのも意味があるかもしれないけれども、現代人の我われにとってそんな世界があるとは思えません。もし有ったとしても、死の向こうにあると考えられますから、結局、浄土へ行くという事柄は、死へ逃れていくこと、今、生きていることから逃れて死んでいくことにほかならないということになって、これがどうして仏教かという意味合いになります。

我われの常識で浄土ということを空間的で実体的なものとして考えてこの経典を読めば、この経典というのは仏教でも何でもなくなるわけです。ああ逃げていったというだけの話です。それも、あてのない世界に行ってしまったのだということになります。

そこにおいては、なぜそういう考え方になってしまうかといえば、大前提になっている浄土という世界を、いつの間にか空間的・実体的なものとしてとらえているということが、浄土という事柄を仏教でないことにしてしまっているかと思います。

その点では、我われのもっている浄土の常識、その常識をいちど吟味するという意味で、浄土という事柄がまず仏の覚りというものを表しているのだと、こう考えてみれば、空間的・実体的なとらえ方というものと違う了解が開かれてくるかと思います。

 

四、「一」を象徴する浄土

細かいことをいろいろ申し上げていると繁雑になりますが、この浄土の世界を取り上げて、まとめられているものが、いわゆる『浄土論』といわれる天親の作られた聖教です。その天親の著された『浄土論』をもとにし、親鸞の著された『教行信証』などをもとにすえて考えていきますと、まずこういう意味になってくるかと思います。

浄土という世界は、それは「一」ということを象徴した世界だと。数字の「一」です。これはもうかなり間をはしょって申し上げていますから、わかりにくい面があるかとも思いますが、ともかく浄土という世界は仏の覚りを表したというけれども、それはどういうことであるかといえば、それは「一」ということを表している。

この「一」ということがどういう意味をもつかということについて、まず、「一」を定義すれば二つ考えられます。ひとつはもうそれ以上分割できないという意味を表す。つまり、それによって「一」というのは基礎という意味、基盤という意味を表す。つまり、よりどころという意味を表します。

そしてもうひとつの「一」という意味がもっている内容は、その「一」から二・三・四・五と始まるのですから、「一」というのは、そこからすべてが始まるという意味がある。基礎という意味を表すと同時に、そこから始まるという意味をもつ。

 

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