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親鸞教学考【第36講】 「後序」のご文の軸になる事柄 廣瀬 杲

一、はじめに

 

六月の会のときにも申したことですけれども。今は郡上八幡市とはいわないのだそうです。市町村合併がありまして郡上市八幡町と言うのだそうです。正確にはですね。盆踊りで有名な場所でありますけれども。その所に、自照会という聞法学習の会があるということを紹介しました。私もその自照会で長い間お世話になっており、いろんなお聖教を拝読しながらお話をしてきたのですけれども。今回、話の接ぎ穂が続かなくなりましてね、何かこう、ここでお話できるような、そういうテーマを考えようじゃないかということの中から、『教行信証』を「後序」に聞くという、そういう学習テーマというものを聴講の人達が提起してくださいました。それが私にとっては非常に大きなショックを受けるような講題になってしまったわけであります。

『教行信証』を「後序」に聞く、『顕浄土真実教行証文類』というお名前で表現されているこの六巻の、浄土真宗の根本聖典と私たちはいただいているお書き物。六巻から成り立っているわけでありますから、その内容となっていることがらには、六つの中心的な課題が一つ一つたしかめられているのだということは、そうでいいのだろうと思いますよ。ただ、なぜ親鸞聖人は、そういう『顕浄土真実教行証』というような題名の非常に明瞭な、内容を指示していくような、そういう題名のもとに、文類・要文を集めて、明らかにしていこうということを、なぜ親鸞聖人は願われたのだろうか。何が親鸞聖人をしてそういう課題のもとに論述をしていくということをなさしめたのであろうか、ということが、ずっと私自身としてはわかっているようでわからんような漠然とした感覚でいままできたのですが。

それに対しまして、自照会が提起してくださった、『教行信証』を学ぶというけれども、『教行信証』をどういうふうに学んで、何を視点として学んでいくのか、という告発的とでも言っていいような問題提起ですね。それが、「後序」に『教行信証』を学ぼうというかたちで表現されたわけです。これは先回ずいぶん興奮してお話をしましたけれども。私にとりましては、少なくとも、この歳まで何らかの形で『教行信証』を学んできたつもりでおりました

けれども、こういうテーマをたてましてね、『教行信証』全体をうかがっていくということは考えたこともなかった。私自身。『教行信証』を「後序」に聞くというのですから、私なんかの感覚で申しますと、「後序」というのは少なくとも『教行信証』六巻のなかでは、一番最後に位置づけられている一部分でしかないのではないかという感覚がどっかにありました。

だから、その一部分である「後序」の文というものは、それ相応の位置を持っているけれども、『教行信証』全体を貫通している、そういうことを見抜いていくといいますか、見届けて行くという、そういう視点には成り得ないのではないだろうかなあということを、それほどはっきりと意識したわけではないですけれども、どっかでもっていたようであります。特に、これはまあ本当に情けない話でありますけれども、『教行信証』を拝読しておりましでもね、一番最後に位置付けられていると、最後にあるというそれだけのことで、最後にあることの意味を問うということが、案外おろそかになってきたのではないのか。そのことが、私自身の反省としてもありましてね。

 

二、『教行信証』というお聖教

 

そういう反省に立ってみると、このテーマは非常に大きいテーマであって、ある意味では、『教行信証』というお聖教をこれから学んでいくのには、この一点から学んでいくと、非常に大きな問題をそこに額いていくことができるのではないのかなと、そういうようなことを思いましてね。『教行信証』を「後序」に聞くというテーマは、それ自体は郡上八幡という都市における若いご住職がたの集まりでの学習テーマでありますけれども、一つの学習会のテーマでありますけれどもね。そういうことにとどめておくわけにはいかないのであって、むしろ、私たちは『教行信証』をどこにたって学んで、何を視座にして学んできたのであろうかという、自分自身の『教行信証』の学びというものがあるならば、その学びの質を問うていくということを内におさえながらですね、という点から『教行信証』を見開いていくと、『教行信証』というお聖教、お書きものはですね、何を明らかにしてくださっているのであろうか、という一点が、あきらかになってくるような気がいたしましてね。もう今さらそんなことやっても間に合わないのかもわかりませんけれども、私としてはこれからいろんなところでいろんなお話をするという器量もありませんし、とするならばこの『教行信証』を「後序」に聞くというテーマを、そのまま私自身のテーマにさせていただいてですね、郡上八幡の会もそうでありますけれども、他のところでもそのことを確かめながら皆さま方とご相談をしていきたい、こんなふうに思いたっておるわけであります。大体そんな気持ちにつきましては、先回いろんな事柄も見定めながらですね、私なりにお話をしたと思います。

幸いなことにテープをとっておいていただいているものですから、先回の話を自分で聞いておりましてね、まあ言いたいことを言ったという感じもしておりますけれども。ただそう言い切ったとたんに、そう言うテーマでお前本当に学んでいくことができるのかと聞い直されますとね、これには自信があるとはどうしても言えません。何回も尋ねていきますけれども、何回尋ねても、『教行信証』全体を「後序」のご文にたって明らかに領いていくということが重要なことでないのかという、その重要性が私自身の問題の中で明らかになっていくかどうか、これはやっぱり、今回を出発点としてという感じで、これからどういうふうにうなずいていったらいいのかということを手探りで求めていくという以外に道はないように思います。

といいましでもね、お前いくつになったのだといわれると、なんとも言いようがないのですけれども。確かにそんなこといったって、今から準備をしていってどうなるのか、と言われればその通りなのです。その通りでありますけれども、だからこそ私にとってはですね。一度そういう視点を与えられたのならば、そういう視点で事をあきらかにするという、そういうことをやらないでいくならば、『教行信証』を学んできたということを、どうしても自分の中で言い切れないと言うことになるのではないかな、という気持ちも一方にありましてね。歳の事やら、さい先を見ておれば分かりますような状況ということも考えますといろいろ思いますけれども。それらのことは振り切って、初めてここで『教行信証』を勉強するのだというようなつもりで、まず、『教行信証』を「後序」のご文において見つめると、どういうことになっていくのだろうか。どういうことが『教行信証』の中から見開かれてき、聞きひらかれてくるのだろうか、という課題をずっと自分の中で持ちながら、お話をしていけたらいいなという風に思っております。

 

 

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