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歎異抄講話 【第十五章()】金子大榮

はじめに

 

 「化身土巻」を読むにあたり、三つの問題を考えてみたいと思います。

 一つには、「化身土巻」というものの、『教行信証』における位置です。二番目は、「化身土巻」というのは、どこから、どういう理由をもって出てくるのか。三番目は、「化身土巻」は何を表そうとするのか。そしてそれは我われにとって、どういう意味をもつのか。この三点を手がかりに「化身土巻」を見ていきたいと思います。それは、この三つのことが明らかになりませんと、「化身土巻」を読んだということにならないのではないかと思います。

 

化身土巻の位置

 

 まず一番目の「化身土巻」の『教行信証』における位置です。順番からいきますと、「教巻」から始まって「行巻」、「信巻」、「証巻」、「真仏土巻」、「化身土巻」ですから、六番目ということになりますけれども、『教行信証』の内容ということから考えますと、「化身土巻」と共通したものをもっているのが「信巻」です。

 どういう点で共通しているかと申しますと、「信巻」にも「化身土巻」にも、「問答」がほどこされています。六巻の中で「問答」があるのは、この「信巻」と「化身土巻」です。そしてその内容も似ております。「信巻」は、一心と『大経』の三心との関係を問うております。「化身土巻」では、『観経』の三心が中心になって、『大経』の三心との関係が問われ、さらに『小経』の一心が問われています。大雑把にみても、その内容が信心ということに関わっているということは明らかです。そして、「信巻」、「化身土巻」それぞれに信心の問答を置くことで親鸞は、同じ信心という言葉を使っても、そこに厳然たる違いがあることを明らかにしようと意図されたと考えられます。

 それで、その厳然たる違いといいますと、他力の信心ということと、自力の信心ということになります。そして、その二つの違いを明らかにするということだけではなくて、「信巻」においては、信といわれるものはいかなるものであるかを明らかになさろうとします。そこでは、信というのは決して我われの内面に宿るようなものでもなければ、我われがつくることができるようなものでもない。それは仏そのものに関係するところのものである。さらにいえば、信というものこそ、仏教というものを基礎づけるものであり、文字通り、信がなければ仏教は始まらない、そういう意味の信であることを明らかにされます。

 さらに、「問答」によって、我われに仏教をも基礎づけるめざめが生ずる根拠と筋道とが明らかにされます。そこに明らかにされた「信=めざめ」は、従来の信という言葉とその使い方では包みきれないのです。

 この「信」についての新たな視点は逆に、従来まで信といわれてきていたものは何であったのか、つまり、仏教の歴史が、信をもって能入となす、つまり仏の教えを信ずる、仏の存在を信ずるということが求道の一番もとになる、一番始めになると従来からいわれてきた信というものはいかなる意味をもっているのか、ということを問題にします。この問題を展開することこそ「化身土巻」の三・一の問答です。そして、その問題とする範囲はある時期だけに限ってということではなしに、釈尊以降の仏教の歴史、仏道の歴史といえば、信から始まり、そういう信が問われるのですから、その内容は歴史的にならざるをえません。

 

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