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歎異抄講話 【第十七章】 金子大榮

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今日は第十七章です。

一 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。

ここで「辺地の往生」という言葉が出てきました。あまり細かいことを言わない『歎異抄』が、辺地の往生ということを、これで三たび出てきておると思います。第一は第十一章で、「誓願不思議を信ずるか、名号不思議を信ずるかといいおどろかして、二つの区別もしないで」、ということが言うてありましたね。あの終わりの方に、「このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに」とあります。そこに、辺地懈慢疑城胎宮と四つ並べてあります。辺地のことを懈慢とも疑城とも胎宮とも言いかえたんでありますから、一括して申しますれば、辺地の往生ということであります。

二回目は先月申しました第十六章に、辺地という言葉がありました。「さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと」とあります。

ただ今読みましたところ、三たび出てきたんでありまするが、そもそも「辺地の往生」ということは、いったいどういうことなんであろうか。そのことをひとつ、今日は中心にお話をしておかなければなりません。

親鸞聖人のおぼしめしは、『教行信証』六巻に出ておるのでありまするが、その『教行信証』六巻を分けてみますというと、前の四巻、すなわち教・行・信・証の四巻は、真実ということが書いてある。真実の教え、真宗の行、真実の信、真実の証と、教・行・信・証ともに真実ということをもって貫いてあるのであります。

それに対して、第六巻目は「方便化身土文類」とありまして、「方便の巻」と言っておるのであります。その境にありまする、「真仏土巻」というのが、これが報土でありまして、したがって、その真実報土というのは、まことの教えを聞いて、念仏を申して、本願を信じて、覚りを開く者の落ち着くところ、それが真実報土である。

その本願のおぼしめしのわからないのが、それが化土である。化土へ生まれるのである。こういうことでありまするが、その真実ということと化土ということとは、いったいどういうふうに違うのであるかということを申しますと、こう言うとはっきりするんだろうと思います。

 

(二)

 

先月も申したかもしれませんが、宗教という言葉は、本来的には仏教にふさわしい言葉であって、キリスト教をはじめ、よその教えは宗教というものでないということを、学者が言うております。

これは明らかにしておかなければならんことなんでありまして、向こうにはレリジョン(religion)という言葉があって、そのレリジョンという言葉を、日本で宗教という言葉に翻訳をしてしもうて、そしてレリジョンの方も宗教にしてしまい、宗教の方もレリジョンにしてしもうて、なにやらゴッチャになってしもうたんであります。

ところで、そのレリジョンというのはどういうものであるかというと、こういうふうにお考えになったら間違いないんです。神さまと名づくる存在者があって、そしてそこにまた、人間という存在者があって、その二つを結びつけるものが宗教というものである。こういう考え方である。

事を分けて申しますと、だれも信心というものはそういうものであると思うておるでありましょ。お薬師さまを信心する、観音さまを信心すると、こういうふうな信心というのはどういうものであるかというと、向こうにお薬師さまという方がおいでになる、こちらに私がおって、そしてその間を信心で結びつけるものである。そういうのが、レリジョンという言葉に、向こうで表してありますけれども、常識的信仰といってもいいんでしょう。だれだってみんなそう思ってますよと、こう言ったら間違いないんであります。

 

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