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歎異抄講話 【第十八章】 金子大榮

(一)

 

今日は第十八章、歎異編の最後のところであります。

一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろうや。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてそうろうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや。念仏もうすに化仏をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし。いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。

「歎異抄」を何べんも講話をしたことがあるんでありまするが、この第十八章というのは、率直に申しまして、いちばんおもしろうない、まあこんな章がない方がいいと思うようなことを、しばしば感ずるのであります。ところがこの間、ラジオの放送で第五章の話をするときに、ふとこれを思い出しまして、そして、第五章を説明するために、十八章を引き合いに出しましたこと、お聞きくださった方は、あるいはこれはと思われたであろうかと思うのであります。話をしてますというと、聞く人はどうあろうとも、話す人間の自受法楽というものがあるんでありまして、これはいいことを見つけたというようなことで、だいぶあれは、自分としてはうれしかったんであります。今日はまあ、そんなことも念頭において、この十八章の心を話してみょうかと思うておるのであります。

 

(二)

 

まず、本文の説明ですが、「仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ」。こういうことを言う人があるんであります。「仏法の方に」というのですから、平たく申しますれば、御本山とかあるいは別院でもよろしいわ。そこへ、「施入物」ですから、寄付でありましょう。本山へなり別院へなりお寺へなり、たくさんお布施をする、寄付をするというと、「たくさん寄付する人は大仏さまになるし、少ししか施さない人は小さい仏になる」と、こういうことを言うてる人がいることであります。まさか冗談でないかと思うのでありまするけれども、まあ、そういうようなことを言った人もないとは言えないのでしょう。

私らの方では、子どもの命日のときには、「今日は小仏の日だ」というようなことを言いますから、そんなことでもなかろうけれども、なにせ大門徒で、たくさん寄付した人は、あの世へ行っても大仏になるし、そうでない人は小仏になるのだということを言う者があるが、「この条、不可説なり」。そういうことを言うちゃいかんと、「比興のことなり」と。この比興という文字は、ほかのことにひきかけて、おもしろく言いなすこと、意味のないことと、こう説明されてますが、比興という字を見るというと、何かとひきかけて、おもしろおかしく言うというようなことですから、まさか漫才じゃあるまいし、というような感じでないかと思います。まさか漫才じゃありますまい。

ということを申しますのは、唯円はそういうような感覚をもっておったかどうか知りませんけれども、漫才なら言いそうなことなんです。ということは、事実、寄付する人の気持を考えてみる方がよろしい。そういたしますというと、亡き人の後を弔う場合におきましても、何かこう、大きなことをしてみたいというのが、生き残ってる人の感じのようであります。

私の寺などは、境内が狭いのに、お墓でいっぱいなんですが、あのお墓たるや、私の寺にはあまりお金になる門徒はおらないんでありまするが、墓ということになると、競争して大きなのを作るんであります。どうしてあんな大きなのを作らなきゃならんのかなあという、その心もちを考えてみる。そうするというと、脇におって皮肉を言いたい人間は、「そうじゃそうじゃ、大きな墓を建てろ。大きな墓を建てると死んだ仏さんも大仏になるぞ」というような、ヤジでも飛ばしたいような気持であるというようなことが、ちょっと考えられる。

 

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