→トップ プライバシーポリシー    →問い合わせ(06−6251−0745)

 

 

 

 

歎異抄講話〈終講〉 −後序−  金子大榮

 

今日は最終回であります。ええ、ずっと終わりの方を拝読いたします。親鸞一人がためなりけりという、その言葉のずっと続きですね。

まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにでもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。まことに、われもひともそらごとをのみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。そのゆえは、念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。このむねを、よくよくおもいとき、こころえらるべきことにそうろうなり。これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。かなしきかなや、さいわいに念仏しながら、直に報土にうまれずして、辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず。

親鸞一人がための、五劫思惟の願は親鸞一人がためであるということから、「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と、こう仰せになったことを唯円が、「いままた案ずるに」善導はと、善導大師の機の深信の言葉を挙げて、そして善導のお言葉と親鸞聖人のおっしゃったことと少しも違ってはおらない。「されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり」と、そこまではまあ、これまでにお話をしたわけであります。

その、そのこの感じがですね、またこう続いていきまして、「まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」と、それが善い、それが悪い、そう心得るが正しいと、そういうのは間違いであるということを、仏のご恩ということを忘れて、そして、自分の領解、あるいは自分の思想について、善し悪しということだけを言うとることであると。こう言ってまた聖人の言葉が出てきておるのであります。で、聖人はこういうことをおっしゃった。親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」。善だの悪だのということは私にはわからない。なぜかというと、如来のよしとおぼしめすほどに、仏が仏のお心において善いと思し召すほどにこちらもわかるならば。つまりこちらも仏の心があるならば、善いということも言えるし、仏のお心において悪いとしてあるようなことがこちらでわかるならば、それは悪いということも言えるのであるけれども、我々凡夫が善いとか悪いとかということと、仏のお心持ちにおいて善いとか悪いとかと言うておられることとは、まったく違うのじゃからということであります。

 

()

さて、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という言葉、私たちのようにこう若い時分から、いや『教行信証』だ、いや『歎異抄』だと、こう言うて読み習うたり、聞き習うたりしておりまする者にしまするというと、ついこう、うっかりしておりますけれども、善悪のふたつ総じてもって存知せずというようなことが果たして今日お互いの上に通用するでしょうか。

思い出しますのは、私たちの先生であった清沢満之という方が、何が善やら何が悪やら知らないということを言うとられます。同じことですわな。「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と、それが聖人のお言葉であった時には、そういうもんですかなあてなことでありますけれども、すぐ身近な先生に、何が善やら何が悪やらわからないなんて応えると、ちょっと無茶じゃなりませんかと、こう言いたいような気もするんであります。

『歎異抄』はここで、聖人が善悪のふたつ総じてもって存知せずと、こう言われたとこう言うておりますけれども、本当に聖人はそんなことをおっしゃったんかしらん。唯円が間違っておるんでないかしらんとも言いたいほどの言葉であります。

ところで、それと似たことを訪ねますというと、『三帖和讃』、ご和讃、ご承知ですね。最後の和讃が「正像末和讃」でありまするが、その「正像末和讃」の終わりの方に、何かあとがきのようなものがあります。その中に「是非しらずこのみなり」と、どれが正しいとか、どれが間違いだとか。邪正。それがよこしまであるとか、それが正しいとかということのわからない自分である。是非を知らなかった者は、みな「まことのこころなりけるをおおそらごとのかたちなり」と、これはもっとひどい、何が善いだの悪だのということを知らない人の方が、みな「まことのこころなりけるを」と。

さあ、この「まこと」ってことは純朴てなことでしょうかね。まあ子どものような者で、赤ん坊のころというのはまあ汚れておらない。そういう、そういうような魂の上においては、それが善いだのそれは悪いのということを知らない。それを、「善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」とこう言ってあります。それを思いますというと、善悪のふたつ総じて存知せずと、こうおっしゃったに違いないんであります。

何が善やら何が悪やらわからない。だが一番はっきりしておりますことは、世の中で善とか悪とかと言うとることを聞いてみますというと、何が善であるか何が悪であるかわからないことは多いのであります。泣いた方がいいのやら笑うた方がいいのやらわからんようなこともあります。

殊に今日のように知識の発達しておる時代におきましては、甲の人の言うことももっともだし、乙の人の言うことももっともだし。どちらの方がいいんですかと言うと、どちらが善いのやらどちらが悪いのやら、まあ仲間になって善いとか悪いとかと言うとるだけのもので、本当のことになるとわからないということなんでしょうが、それだけならばまあまあ、まあまあそういうことなんでしょうということですが。「そのゆえは、知来の御こころによしとおぼしめす」。仏さまにはわかっておるんだという、仏さまには善し悪しがわかっておるんであるが、我々にはわからないんであると、こう言ってありまする言葉は、もう一つ考えさせられるんであります。

 

(三)

この言葉について、昔の『歎異抄』の講者が思い出したものは、聖人が青年時代に勉強せられた天台宗の書物であります。その天台宗の智者大師という方の書かれた『法華玄義』という書物がありまするが、それはまあ『法華経』を学んで、その道理を書かれたものであります。その中に仏知見という、仏知見というものが述べてあります。『法華経』には「唯仏与仏の知見」ということがありまして、仏の智慧の眼というのは凡夫ではわからないということを説いてあるのであります。その仏知見というものを説いてあるところに、央掘魔羅は人を千人も殺したんでありまするけれども、ご縁があって仏の悟りを開くことができた。四禅の比丘は、仏弟子として悟りを開いたようなことを言うとるけれども、ついに本当にご縁がなくして、まことのことがわからなかったという言葉があるんであります。これは簡潔な言葉でありますけれども

 

大阪市中央区久太郎町4-1-11真宗大谷派大阪教区教化センター TELFAX06-6251-0745     ◆ホームへ