教化センターリーフレットA「今月のことば」−20091月号(259

無碍の光明は

無明の闇を破する慧日なり  

(『教行信証』)

 

親鸞の著、『教行信証』(総序)には、無碍の光明は衆生のあらゆる煩悩にも妨げられずに無明の闇を破り、そのはたらきはあたかも太陽の光の如くであると説かれている。

弘誓と光明は、浄土真宗の教法の根本概念である。とりわけ無碍の光明は私たちの生死の因である無明を破り浄土への道を開示し、弘誓の難度海を超えしむる原動力である。無明の闇とは、煩悩具足の凡夫の身に実感される業苦であり、それは罪深い身を生きねばならない大いなる悲しみにおいて体感されるものである。親鸞のこの言葉に触れるたびに、私はいつも次の短歌を思い出す。

「かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の木の翳らひにけり」(『子午線の繭』 前登志夫 一九二六―二〇〇八年)

この一首には、光と闇との相関関係の中で苦しみ悩み、悲しみに圧し潰されそうになりながらも、何とか一個の人間として真直に立ち真摯に生きようとするひたむきな力強い意志がみなぎり溢れている。

それからまた歴史をふりかえってみると、ドイツでは第二次世界大戦中にヒトラー政権のもと、殺害されたユダヤ人は四百二十万から四百八十五万人にのぼると推定されている。そのことに重大な責任を感じ、一九八五年五月八日(ドイツ敗戦四十周年)に当時のドイツ連邦共和国(西ドイツ)のヴァイッゼッカー大統領が演説を行った。その演説の中の、次の言葉も忘れることができない。「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」(『荒れ野の40年』岩波ブックレット)

親鸞の語る無碍の光明は、決して罪をうやむやにしたり無かったかの如くその罪を消し去ってしまうものではない筈である。むしろ愚かなこの身を痛み悲しむ罪深い存在の自覚を私たちに促し、さらによりいっそう深く悩むこころを換起させるものであるに違いない。

 

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