教化センターリーフレットA「今月のことば」−20093月号(261

帰命は

本願招喚の勅命なり     

 (『教行信証』)

 

このお言葉は、善導大師の六字釈(『観無量寿仏経疏(観経疏)』中、六字名号を釈された部分)にはないのですが、親鸞聖人はそれを受けられて、『教行信証』「行巻」に、しかれば「南無」の言は帰命なり。乃至「帰命」は本願招喚の勅命なり。

「発願回向」というは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり

と述べられています。

また、『教行信証』「信巻」(聖典232頁)に、

「欲生」と言うはすなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なりとも述べられています。

これは、第十八願の「欲生我國」(我が国に生まれんと欲え)のお言葉を、如来のお呼び声といただかれているのでしょう。ですから、続いて、『大経』の「至心に回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと」と十八願成就の文を引かれます。

これらのことから、我々が彼の国に生まれたいと願ずる心、帰命の心、信心は、すでに回向されているという裏付けでもあり、私が発こすものでは決してない、本願力回向であるという確信のお言葉であるといただいています。

また、善導大師が『観経疏』中の「二河白道の譬え」(聖典220頁)に、

西の岸の上に人ありて喚うて言わく「汝一心に正念にして、直ちに来たれ、

我よく汝を護らん

というお言葉があります。それを曽我量深先生は「“汝一心に正念にして直ちに来たれ”が南無で、“我汝をよく護らん”が阿弥陀仏である」(曽我量深講義集第十一巻172頁)と言われています。

通常、南無(帰命)する主体は私であると固執しているのですが、そうではなくここに主客転換があるのであると述べられています。

また、聖人はこの「二河譬」のお言葉を『愚禿鈔』(聖典455頁)で西岸上に人ありて喚ぼうて言わく」というは、阿弥陀如来の誓願なり。「汝」の言は行者なり。(中略) 「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また「第一希有の行」なり、金剛不壊の心なり

と行信一致を述べられています。

宮城先生は、我、我と主張し、固執していたものが、願いをもって、阿弥陀仏より「汝」と呼びかけられ、呼び出されているものとして、その仰せを全身で聞くところに念仏者の相があるのですと言われています。

(和讃に学ぶ 浄土和讃 166頁)

 

◆ホームへ