教化センターリーフレットA「今月のことば」−20094月号(262

如来微塵世界に

みちみちたまえり

                                    (『唯信鈔文意』)

親鸞聖人の仮名聖教『唯信鈔文意』のお言葉です。聖人が「如来」(阿弥陀如来)を語られる時は、他の『尊号真像銘文』『一念多念文意』でも必ず、「この如来、十方微塵世界にみちみちたまえり」とくり返し教えられます。如来とは、この宇宙を尽くしてどんな世界にも入り込み満ち溢れて働いている「はたらきそのもの」だと言われるのでしょう。いのちにみなぎり、光あふれるお言葉です。

そして、「すなわち一切群生海の心なり」と重ね、この如来が私たち生きとし生きるもののいのちとなり、根本精神となってはたらいてくださると教えられるのです。

この如来の中に生かされながら、私は如来を知らず「私の力で生きている」つもりであって、如来に背き、私には関係のないものとして遠くに追いやっているのです。

明治の先覚者清沢満之師は、「我等の大迷は、如来を知らざるにあり」と目覚められました。如来を知らないのは、私を頼み、私の甲斐性を頼んで生きているからでしょう。私が生まれ、私の力で生き、私が死ぬと思っている。この「私」が抱く無限の欲求に執われ、振り廻され、行き詰まって迷い苦しんでいるのでしょう。この「私」は、あたかも宙に浮き、風に流される風船のようなものです。どんなに欲求を満たしても、決して真の満足も安心もないのです。

「今日まで、まあまあ無難な人生を送ってきましたが、何か大事なものを忘れてきたような気がします。この年になってどことなく空しいものを感じて仕方がない」と言って、定年退職後の人生を真摯に聞法に励んでくださっている方があります。

如来を忘れて生きていることは、いのちの根っこを失っていることです。そういう私を如来は、空しさや不安、不満感となって「それでよいのか」と常に促し、問い続けて、眠りこける私を立ち上がらせ、聞法に押し出してはたらいてくださいます。

この如来が、私のいのちとなり、如来の誓願を信ずる心となって、私の内から「南無阿弥陀仏」と名告り、生まれ出ようと待ち続けてくださっているのでしょう。

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