教化センターリーフレットA「今月のことば」−20095月号(263

     一念喜愛の心を発すれば

煩悩を断ぜずして涅槃を得る(『教行信証』)

 

喜愛の心というのは信心のことですが、信心の現実的なはたらきは阿弥陀仏の大慈大悲を喜び愛でる心でありましょう。

阿弥陀仏のお心に初めてであう喜びの時を〈一念〉ともうしますが、信の一念が一生を通じて相続し、人生生活のそのつどにおいて、信心の喜びが反復されてまいります。

喜びについて一般的にいえば、生活に何らかの喜びがなければ生きる力も生活のハリも生き甲斐も湧いてきません。人間は、喜びのない、単に食って働いて寝てというだけの生活には耐えられないと思います。

民衆はどんなに苦しいときでもそこに何らかの喜びを見つけて、この世の苦難に耐えてきたと思います。いわゆる親子夫婦の情愛、親しき友との交わり、飲食や花鳥風月の楽しみ、歌や踊りなどがあって、苦しい人生を生きてきたのだと思います。

ことに現代は映像文化やスポーツや旅行などの娯楽や享楽が山ほど用意されています。

しかし、人と人が愛し合う喜びは時には憎しみに変わり、あるいは愛している人を失う悲しみが伴います。また花鳥風月の喜びには、咲き誇る花も散るように、過ぎゆき移ろいゆくはかなさを感ぜずにはおれません。またさまざまな娯楽や享楽には豊かな充足感は望むべくもなく、空しさすら感じますし、美術や音楽などの芸術にはなるほど質の高い感動はありますが、人生全体を支えるほどの安らぎは与えてくれません。

こうしたこの世の喜びの中で、悪業煩悩の私にもかかわらず、〈汝をまるまる引き受ける、助ける〉と喚んで下さる大慈大悲の阿弥陀仏とのであい、これに過ぎた喜びはないと思います。私たちを無条件に受容し、死への憂苦を除き、死して浄土(涅槃界)に至らしめたもう阿弥陀仏が、現在の人生のより処になって下さいます。そういう阿弥陀仏とのであいこそ私たちが心の底で求めているものではないでしょうか。

 

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