教化センターリーフレットA「今月のことば」−20096月号(264

信心の行者には天神地祇も敬伏し

魔界外道も障碍することなし  

                                 (『歎異抄』)

 

日本は四方を海に囲まれ、川あり、山あり、四季の変化ありと自然環境に恵まれた国である。反面、地震や洪水や台風などの自然災害があり、農作物が被害にあい、海や山では多くの人命が奪われたことも事実である。人間には自然の恩恵と恐怖という相反する二つを同時に背負ってきた歴史がある。山の神、地の神、海の神、天の神、をつくり、自然災害や疫病から身を護るため加持祈祷を行い、豊作、大漁を願い祭りを続けてきた。また非業の死を遂げた人を神や仏や英霊として祀り、祟りがないように慰霊や鎮魂の司祭や先祖供養が行われてきたし、現在も行われている。このように私たちの生活は自然の恩恵に対する感謝と畏怖の念があり、個人を霊としてしまうことがある。神々や霊を恐れている者は常に不安と恐怖に怯え続けなければならないだろう。しかし本当は誰もが不安と恐怖を受け止めて生きることのできる人間になりたいと願っている。

人間が神々を創造する根底には、保身と共に不安を避けたいというエゴが滞在している。そのエゴに目覚めさせるのが仏の呼びかけである。人間の都合の良い環境や状況は喜べるが、都合の悪いものは避けたいという身勝手さを知らしめるものは人間からはでてこない。誰でも災害や困難に遭遇することは好まないだろう。しかし人間が生きるために自然を壊し、他の生物の生命を犠牲にしているという痛みと悲しみを忘れてはならない。

親鸞聖人の時代にもよろずの神々に対する信仰は根強くあったであろう。宗祖はそれを否定して念仏の教えを説かれたのではない。だからといって神々の信仰を肯定されたのでもない。神々を恐れたり、敬ったりする人間が恐怖や不安から解放されて生きていく道を示してくださったのである。恐怖や不安を失くすのでなく受け止めて生きていける身にさせていただけたことが信心の行者の姿であり、「念仏は無碍の一道なり」と教えられていることである。

 

 

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