教化センターリーフレットA「今月のことば」−20097月号(265

大行とは

すなわち無碍光如来の

名を称するなり  

『教行信証』

 

私たちが不安、恐怖、そして憎しみから解放され、他者を援助し、かつ他者と交わりを結ぶことのできる国、その国をひらいていく真実の行はいかなるものであろうか。宗祖はそのような行を浄土真実の行と名づけられた。第十七諸仏称名の願に誓われた称名の大行である。「大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」。無碍光如来、すなわちアミダ如来に心から服従し、その名を称せよと私に命じているのである。

なぜ、如来に服従し称名することが救いなのか。仏自身はお答えにならない。命じられるだけである。宗祖は測り難い仏の聖意を推求して、この行は諸々の善を摂し、諸々の功徳を具する功徳の宝海であること、しかもこの称名の大行は一切衆生をもれなく往生せしめようとの大悲の願より出でていると。これは、名号が万徳の帰するところであり、念仏はすべての人に通じる易行である故に、念仏往生の本願とされたのであろうという法然上人の了解をうけるものである。

勿論、名号の意義を教学的に思惟すること、名号を称することとは全く別のことである。「ちしゃのふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし」(一枚起請文)。これが信仰のいのちである。信仰であれば生活となり行為にあらわれる。行為だけが信仰者をはかる規範である。「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」ともの同朋にもねんごろのこころおわしましわばこそ」(御消息集)という行為は念仏者のしるしである。いわばアミダ共和国の市民とせられた念仏者に功徳としてめぐまれるしるしである。

功徳といっても特別なことではない。日常のありふれた行為の中にある。遠くに例を求めることはないが、アミダ共和国というとき一七世紀のオランダ共和国を想像してしまう。二〇〇〇年にオランダと日本の交流四〇〇年を記念して大阪でフェルメール展が開催された。その目玉だったのがフェルメール(一六六三−一六七五)の「真珠の耳飾りの少女」であった。永遠の一瞬を切り取ったような少女の不思議な眼差しに出会ったひとも多いだろう。私はフェルメールの絵に共和国の功徳とそのめぐみを感じる。一六世紀末にスペインの圧政から独立を宣言し、オランダ共和国を誕生させた市民の静謐な日常が、「デルフトの眺望」「牛乳を注ぐ女」と名付けられる絵にも描かれている。自由と平和、そして寛容の国、オランダ共和国とその名への敬虔、そして心からの服従、これはフェルメールとオランダの人々のひとつの大行ではなかったか。

 

 

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