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教化センターリーフレットA「今月のことば」−2009年8月号(266) 一切の有情はみなもって 世々生々の父母兄弟なり (『歎異抄』)
映画「おくりびと」のなかで、風呂屋のおかみさんが亡くなって火葬に付されるとき、火葬場の係りのおじさんが「行ってらっしゃい、また会おうな」と言うシーンがありました。印象に残る言葉でした。 「死んだらしまい」とよく言うのですが、はたしてわたしたちは死んだらしまいなのでしょうか。火葬場のおじさんには、死して行く世界、再び会う世界が、はっきりしていたように思われます。 今年のはじめに、二人目の孫が生まれました。今度はどんな孫だろうと病院へ行きましたが、初対面の顔を見て「お前さん、どこから来たの」と思いました。子どもは仏さまからのさずかりものですが、どのような過去の縁を背負って生まれて来たかは興味あるところです。 孫にしてみれば、生まれる国、県、町、家、親の選択は無数にあったはずです。よりにもよってこのような肉親との縁を結んだという背景には、ただならぬ歴史と理由があったのだ、と思わざるをえません。 地球上に生物が出現して三〇数億年ともいいます。その途方もない過去「世」に、自分は何回となく生まれ変わり死に変わりし、その間、さまざまな生き物の「生」を受けてきた、と考えるのは荒唐無稽と思えません。これを「世々生々」といっているのでしょう。 自分の過去世とか、どのような生であったかは、確認のできるものでありません。しかし、この世でのさまざまな人とのご縁に対してその人びとと「世々生々」において、かつて「父母」や「きょうだい」の関係にあったのでは、という考えには出会いの不思議さへの深い感動があります。 「袖ふれあうも多生の縁」といいます。偶然に道ですれちがったようでも、「世々生々」の縁として、必然の出会いであったのです。 愛と憎しみが道順する苦悩多きこの世ですが、「世々生々」に思いを馳せるとき、すべての人は父と尊び、母と親しみ、きょうだいとして接するべき、かけがえのない人であると知らされるのです。
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