教化センターリーフレットA「今月のことば」−20099月号(267

 

阿弥陀は光明なり

光明は智慧のかたちなり

                              (『唯信鈔文意』

 

釈尊入滅のとき、お弟子のアーナンダが釈尊に「あなたが亡くなった後、私たちは何を拠り所にして生けていけばいいのですか」と尋ねた。それに対して釈尊は「自らをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を拠り所として、他のものを拠り所とするな」と話され、そして「すべてのものは過ぎ去るものである。努力して修行を成し遂げよ」と最後の説法をされた。そこで問われてくるのが、拠り所とする自分です。

私たちの眼は外を向いていて、問い尋ねるのは仏教の教えのほうだと思っています。多くの教えの言葉を覚え知識を増やさなければと考えています。しかし、法然上人・親鸞聖人の立っておられたところは、少し違っていました。

親鸞聖人の88歳のお手紙にこんなお言葉があります。(真継伸彦著『親鸞書簡集』から引用)故法然上人が「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と仰せられたこと、私はたしかに聞いております。

聖人はそのうえ、何も知らぬ浅ましい人びとが訪ねてくるのを御覧にな

ると、きっと極楽へ行くよと、笑って仰せられていたのを私は見ておりま

す。また文字をよく知る、いかにも賢げな人が訪ねてくれば、この人の往

生はどうであろうと仰せられていたのを、私はたしかに聞いているのです。

阿弥陀の光明は言葉となって、私に迫ってきます。そして白日の下に自身を「愚者」と明らかにします。明らかにされた自身を、蓮如上人は「無善造悪の、われらがようなるあさましき凡夫」「われらごときの悪業煩悩の身」と表現されている。そして、親鸞聖人は「猟師・商人など様々な人は、いし・かわら・つぶてのごときわれらなり」とうなずかれている。

江戸時代の浮世絵草紙の作家井原西鶴は「人間は欲に手足の付いたる物ぞかし」と表現した。強欲資本主義といわれる現代社会の真っただ中を、「さまざまな人は、われらなり」と知らされた私と教えを手掛かりに、たゆまぬ歩みを続けて行く。

 

 

 

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