教化センターリーフレットA「今月のことば」−200911月号(269

たまたま行信を獲ば

遠く宿縁を慶べ

                       (『教行信証』

 

今回の言葉は、親鸞聖人の主著『教行信証』の総序にあるものです。この言葉に触れる度に身の引き締まるのを覚えます。

お釈迦さまは、ある時、弟子達を引き連れて大きな河の辺りにこられました。河畔に落ちていた握り拳ほどの石を拾われて、弟子達に申されたのです。この石を河に投げるとどうなるであろうかと。弟子達は当然河に沈むと思いました。その時、お釈迦さまは、沈む石も縁の力を借れば、河に沈まないことにもなる。とお話になりました。(河崎顕了著『仏教譬喩物語』)お釈迦さまは、弟子達に縁のはたらきの大事さを説かれたのです。

人が、阿弥陀仏の本願(無限の願い)を聞き開いて(信じて)、南無阿弥陀仏を申すことになったのは、無始時来の遠い遠い過去からの因縁があってのめぐり遇いであり、深く慶ばさせてもらう他ありません。親鸞聖人はかかる因縁を宿縁といただかれました。西山邦彦先生は『宿縁は如来にかかる。だから、勝縁、強縁という』とも記されています。(西山邦彦著『親鸞』T)

縁ということで申しますと、2011年に親鸞聖人七百五十回御遠忌に遇わせてもらえるのですが、感謝と懺悔を深める私どもの念仏生活の大きな縁であると慶ばさせていただかなければならないのではありませんか。

親鸞聖人は「真実の行信をうるものは、心に歓喜おほき」(金子大榮編『真宗聖典』上)と著されています。真実の行信を頂くと−名号を心に信じ、口に称えるようになると、心によろこびが、いっぱいにしていただく。それは龍樹菩薩がその著『十住毘婆沙論』の中で、念仏する者は五つの怖畏(不活畏−明日は食べてゆけるだろうかの不安、死畏、堕悪道畏−明日は幸せだろうか。大衆威徳畏−多くの人前での不安。悪名畏)が無いからだと教示されています。

今、阿弥陀仏に念仏をかえして、この身に信をたくわえる歩みをするばかりです。

 

 

 

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