教化センターリーフレットA「今月のことば」−200912号(270

かなしきかなや道俗の

良時吉日えらばしめ

天神地祇をあがめつつ

卜占祭祀つとめとす

                           (『正像末和讃』

 

私の住んでいる地域の夏祭りは、若い住民がだんじりを引き、神輿を担ぎます。その中には、同じ地域での繋がりなのでしょうが、他宗の若い僧侶の方が混じっています。

神に帰依することは健康で長生きが幸せと考え、生死をより良くしようとするものです。仏に帰依することは「生死出ずべき道」を求めることです。そこには、まったく方向が違うことが同じことと考えられています。すなわち現代では神も仏も混迷しており、祈願することのみが宗教であると思われている現状なのです。

我々人間は、日々の生活において苦(思いどうりにならないこと)を感じ、解決を求めています。そして、その解決を六曜による日の良し悪し、占いによ幸運のもたらし方等いろいろな方法を考え出しました。また、神仏に加護を求め超自然的威力を求めている姿は、親鸞聖人の時代も現代も同様なのす。このような現世の利益を求める宗教に対する態度を岸本英夫氏は〈きしもと・ひでお 東京大学、宗教学名誉教授。(19031964)〉、「請願態」の宗教と位置付けられました。[『宗教学』(大明堂)]また、歴史的にみると、倫理的社会的理想を目標として、それを追求し、その実現に努めていく「希求態」の宗教へと発展していくと述べられています。

親鸞聖人は、宗教の在り方を「真・仮・偽」の三つに分類されました。

「『偽』と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり」(『教行信証』信巻)と、仏教以外の思想や教義、実践の方向性や方法が邪であると見破られているのです。また、「『仮』と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土定散の機なり」(『教行信証』信巻)と、末法の世に聖道門の者は自力の行にしがみつき、同じ浄土門においても不純なる本性を明らかにされたのです。

真の宗教とは『真というは、選択本願なり』(末燈抄)と、仏の本願に遇うことなのです。そこに「生まれた意義と生きる喜び」の生活が初めて始まるのです。それを岸本氏は、特殊な「諦住態」の宗教(「諦」とは真理、「住」とは生活)に到達すると述べられています。

これこそが蓮如上人が「聖人一流」(独特・特別)と述べられた所以なのです。

 

 

 

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