教化センターリーフレットA「今月のことば」−20101月号(271

摂取不捨の真言

超世希有の正法

聞思して遅慮することなかれ

『教行信証』

 

自らの眼は、自分を見ることはできません。私のこころはいつも自分を起点に動いています。それは自分にとって都合どおり、思いどおりにしたいこころです。それは外に、他に向かってはたらいております。しかしながら、私を取り巻く事情は無辺であり、常に変転しており、望みどおりにすることは不可能であります。

そこに苦悩が生じ、迷妄し、沈淪するのです。自らが自らを救うことはどこまでもできないのであります。宗祖はその状況を難度海と述べられました。

この一切衆生の流転をまさしく捉えてくださり、大悲同感して、摂取して浄土に生ぜしめんとはたらいてくださるのが難思の弘誓、如来の本願と無明の闇を照らす無碍の光明であります。

その真実の教法を、摂取不捨の真言、超世希有の正法と示されています。

摂取とは、ものごとを受け容れる、納得するということです。それは自分自身に対しても、我が身が受け容れられる、納得するということです。だが、私の意識からは摂取ということは出てこないのです。私たちのものさしは自分の都合によって好ければ取り入れ、利用し、また悪ければ排除してしまうのです,

また超世ということは、この娑婆を超えるということです。だが、この私は、裟婆をどこまでも一大事にしており、私たちには、この娑婆を超えるということも生まれてこないのです。

私たちは、人間として生を享け、その人生を歩んでおりますが、真に私が私に出遇い、人と成るとは、いかなることなのでしょうか。親鸞聖人は九十年のご生涯をかけて、ご自身を問われ、私たちに明らかにされています。

自分では目覚められないが教えを「聞く」ことによって、自己を超え、思いが破られていく道が開かれるのであります。自己をとおして教言に遇い、教言をとおして自己に遇う、限りなく円環していく実践を、宗祖は、如来の教法、本願の念仏を「聞思して遅慮することなかれ」と呼びかけられています。

 

 

 

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