教化センターリーフレットA「今月のことば」−20103月号(273

本願他力をたのみて

自力をはなれたる

これを唯信という

『唯信鈔文意』

 

1997年5月、神戸須磨児童連続殺傷事件が起こってから、各市町村で子ども達の登下校時に、地域の定年を過ぎた方々がボランティアで、街角に立たれるようになりました。

登校時には「おはよう」、下校時には「お帰り」と子ども達に声を掛けているにもかかわらず、挨拶を返さない子ども達が多いことに気がついた。挨拶の意に背いている欺瞞な人は、子どものみならず現代の大人達にも当てはまることである。私たちは本当に小賢しい知識をもって、自分のいのちや才能やわずかの間に築き上げた財産を、自分が生き、自分が築いてきたと錯覚している。

挨拶の本当の意は、“お陰さま”でということであろう。南無阿弥陀仏によってこそ、今の私があるのだ。私がここに生きているということは、その根本阿弥陀の働きがあってこそ、自分の能力や財産や知恵が生きているのである。乳ガンの転移で左肺上葉摘出手術を受けられた鈴木章子さんは、『「なせばなる。ならぬは人のなさぬなりけり」などと、普段は自惚れていた自分が突き崩され、笑うことさえも自分の思い通りにならない事実にぶつかりました。自力を尽くしたところに他力ありと思っていたのが、肺一葉捨てたおかげで気づかせていただきました。』(癌告知のあとで 探究社)と阿弥陀仏の限りなきいのちと、限りなき智慧の光によって現在ここにあるということを述べておられます。

念仏とは、自己を照らす相である。しかし、私たちの日暮らしは、能力や才能や財産等のような頼りにならないものを頼りにしている。それを捨て、阿弥陀仏一仏以外の一切を捨てて、無限の阿弥陀に帰した時に、尽十方無碍光如来、無碍光の世界が開かれてくるのである。自力の疑いが捨てられるのは、本願力のはたらきによるのであり、本願に帰してはじめて疑いから解き放たれるのであろう。そのことを宗祖は高僧和讃で、「信は願より生ずれば」と信もまた願によって授かるものとおっしゃる。そのことに裏付けされた信こそが、宗祖の言われる「唯信」なのであろう。

 

 

 

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