教化センターリーフレットA「今月のことば」−20104月号(274

大信心は仏性なり

仏性すなわち如来なり

『浄土和讃』

 

「ご自愛ください」「ご自重を念じています」。この言葉が手紙やハガキの最後に添えられていると、発信人のぬくもりが感じられ、人柄、人間味というものが自然に伝わってきます。

ところで私たちは「自愛」という自我愛、エゴイズムだとしてすましておりますが、はたして自分を愛するということがそのままエゴイズムだとして一刀両断に言いきれるのでしょうか。たしかに仏教は愛について、欲・有・非有の三愛とか、貪愛・渇愛などといって、人間を根本から深く迷わせる煩悩だと教えられていますが、それはけっして私たちの煩悩を外側から定義づけたり、真理の名でもって人間の迷いを裁いている言葉ではありません。自我愛に執われ、せっかく出遇った人とすれちがっていないか。自分の人生を空しくしてしまっていないか。その私たちの迷妄性を厳しく指摘された言葉でありましょう。「自分を愛せない人は人も愛せない。自分を憎んでいるものが人を愛することはありえない」といわれた方がおられますが、安田理深師は人間存在とおさえておられます。「自尊は自己を尊重するがゆえに他を尊重します。自慢は煩悩ですが、自尊は信心の智慧です。信心の智慧によって自己尊重の意義が見出される」と。あくまで信心の智慧によってであります。だから「大信心」といわれるのでしょう。たまわりたる信心ということです。

ただ、そこでいわれる信心は、まことの心ですから、私自身の外から信心をたまわるというのではありません。それなら外道と同根になります。信心とは私が信ずる心というより、私の思いの底を破って涌出してきた心ですから、それはもはや如来とひとしき心でありましょう。私の心の中のどこを探しても起こるはずのない心が現に発っている事実を、感動をこめて「大信心は仏性なり」と宗祖をして言わしめたのでしょう。しかもその心は私の上に起こっても私が発した心ではありませんから、「仏性すなわち如来なり」と、如来の願心に返したと受けとめるべきではないかと思います。

私たちは神・仏に頭を下げることがあっても、私自身に頭が下がったことが一度たりともあったでしょうか。「深信自身」、宗祖親鸞聖人からいただいた課題でありましょう。

 

 

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