教化センターリーフレットA「今月のことば」−20105月号(275

他力をたのみたてまつる悪人

もっとも往生の正因なり

『歎異抄』

 

私の生活を考えてみると、経済的に贅沢をしなければ、困っているわけではない。また、家族に争いもなく、健康で特に取り立てて不足もない毎日です。このような私にとって、「悪人」とは誰のことでしょうか。「往生」とはどういうことでしょうか。

金子大榮先生は、「仏法は解る器と解らない器がある。初めから生死というものに対して不安も感じていないし、人生の愛憎ということについて悩みを感じない人は、これはそういう人でも解る宗教があるか知らないけれども、仏法は解らない、真宗は解らない」と言っておられ、今の私を的確に言い当てられていると感じています。

日頃の自分をよく見てみると、満足しているどころか、不満で不安で、何の意味もないことに夢中になって、毎日を過ごしています。考えないように、見ないようにしているだけなのです。

親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり」(『一念多念文意』)と、凡夫の身の有り様を知ろうとしないもの(悪人)として、私自身を言い当ててくださっています。

迷いという河に落ちたとき、岸からは「仏さま」が「助けん」と手(本願)を差し出してくださっています。しかし、この手が見えているでしょうか。平生、生きることは「こんなものだ」と、自分の実態が解っていないもの(私)には見えていないのです。河に落ちたと解っても、何か手の届く(何の役にも立たない)ものにつかまり、自分の力で助かっていこうとするもの(私)には、手(本願)は見えていてもつかまろうとはしないのです。他力をたのむとは、まさに今、落ち、溺れているとき、自分の力では何ともならないと気づかされ、何も思案せずにその手につかまることです。まかせるのです。

善導大師は「経教はこれを喩うるに鏡のごとし、しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧を開発す」と言っておられますが、身の事実をあきらかにし、生まれた意義をあきらかにするのは、教えに聞く(聞法)しかないのです。

これこそ阿弥陀仏の「本願」です。

 

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