教化センターリーフレットA「今月のことば」−20108月号(278

広大智慧の名号を信楽すれば

煩悩を具足しながら

無上大涅槃にいたるなり  『教行信証』

 

夏になると川で泳ぐことを覚えた世代は小学校のプール授業も待ち遠しかったものです。しかし、ある小学校の先生が、「今の小学校の子どもたちは、今日はプールの授業だというと嫌そうな顔をする。昔の小学校なら大抵は大喜びしたのに。」と話されていたことがあります。小さいときから親にお稽古事の一つとして水泳を練習させられた子どもたちにはプールで水と親しむというイメージよりも、「水泳は少しでもうまくなる、速くなるということが大切で辛いもの」という思いが強くあるのでしょう。

 生まれてから、自分と周囲の人間は比較や競争をしなくてはならないものだと教えられて成長した私たちは、常に自分か優位に立つことで満足しようとする生き方を選びます。どこまでも、比較や競争としての生き方を考える私たちにとって、自分を中心とした悩みは尽きません。

 あるご婦人が夫とは親を続けて亡くされました。ご婦人は「世の中にこんな不幸なことかあるんでしょうか。何も悪いことはしていないのにどうして私だけにこんなことが起きるのでしょうか。どう生きたらいいか教えて下さい。」と言われました。

ご自身の人生を賢く着実に生きておられたという思いが崩れてしまったご婦人は自分の幸せな世界が全く否定された思いがしたのでしょう。癒しの言葉を繰り出すならば簡単でいいのですが、ご婦人の幸せな世界を否定しない癒しの言葉には限界があります。さらに、その癒しの言葉がなくなった時にもっと大きくご婦人の幸せな世界が崩れます。

 けれども、自分だけを中心とした幸せな世界が崩れた時に、本当はいろいろな人と手を結んだ大きな世界があると気付くのです。手を結んだ世界からは「幸せの比較や競争をする世界」が無意味に思えます。同じように悲しみや苦しみがあるとしても、自分と同じ道をたくさんの人が共に歩んでいることに気付けば、自分もしっかりと悲しみや苦しみを抱えて歩んでいけるのです。 

 

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