教化センターリーフレットA「今月のことば」−201010月号(280

真実信心をうれば

実報土にうまると

おしえたまえるを

   浄土真宗の正意とす

『唯信鈔文意』

 

寺に身を置き、日々合掌し念仏申す生活ですが、それはただ住職としての日常であって、真の仏教者としての営みになり得ていません。世襲が当たり前となっている現代の大半の僧侶は、自身の諸問題と向かい合い必然を感じて出家した人や、仏教の社会実現といった使命感を持って仏教者になった人は少ないと思われます。自分もまた、ただ寺院に縁のある生まれ育ちという境遇から僧侶になったのであって、自ら発心して仏道を歩み始めたわけではありません。教学を学問的に理解しようとする現代の一般的な仏教者同様、教えを勧める身でありながら、自身が仏教を心から信じているとは言い難く、仏教で救われたとの思いも希薄です。

宗祖が度々書き記された「浄土真宗」という言葉は、経典や法然上人までの他の祖師方の書には見受けられません。現代人にとっては宗名としてなじみの語であり、蓮如上人も宗名に関する『御文』(聖典775)で浄土真宗と明示しておられますが、公的名称として流布認知されたのは近代以降です。一宗旨を開こうとの意思はなかった親鸞聖人がこの言葉を使われた思いを、きちんと受け止めることが肝要ではないでしょうか。

時代と向き合い時代を切り開いて来たからこそ、仏教は今日まで受け継がれてきました。苦しみの現実に向き合ってこそ仏に出会うことができ、自身の苦悩に出会ったものの言葉だけが、苦悩を抱える人の心に届くのではないでしょうか。『歎異抄』では「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。」(聖典631)と宗祖の教えを受け止めています。仏教や宗祖を学問の中で理解することに汲々として、現実社会の様々な問題と向き合わない仏教は、今を生きる者の指針とはなり得ないでしょう。末法濁世の時代と真摯に向き合い、苦悩の現実を生きる人々の思いに寄り添って歩まれた宗祖から、自分の生き方が問われ続けています。 

 

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