教化センターリーフレットA「今月のことば」−201011月号(281

弥陀の五劫思惟の願を

よくよく案ずれば

ひとえに親鸞一人がためなり

『歎異抄』

 

私がランニングを始めた動機は、50歳代にアルコール性脂肪肝の予備軍だと診断されたことによる。そこで、このままでは駄目だと思い一念発起して走り始め、1999年に初めてマラソン大会に出場し、5キロメートルのコースを走った。そして年に一度か二度は、10キロ・マラソンに出場し、ハーフ・マラソンも二度完走した。

小説家の村上春樹は33歳のとき、「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」(『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋)ことを目的にマラソンを始めた。そして世界のフル・マラソンを完走し、トライアスロンも体験している。その彼が走ることは、「生きることと同じだ。終わり(ゴール)があるから存在に意味があるのではない」(同)と言っている。スタートしてゴールを目指すわけだが、ゴールインしてすべてが終わるのではなく、生きることと同じように、死によって生が終わるのではないということであろう。

この「今月のことば」を、作家の野間宏は、「親鸞の信心がどのようなものであるかを、はっきり示すものであるが、このような思想がよく日本に生まれたものだという思いを、私はこの言葉を読むたびにいただくのである。これこそじつに新しい人類の思想なのである」(『歎異抄』筑摩書房)と言っている。親鸞の信心は「新しい人類の思想」だと言ったのは、阿弥陀の本願は親鸞一人のためのものだという親鸞の深い自覚だと思う。本願そのものが自分のためにあるという親鸞の徹底した信心は、私たち一人ひとりの信心を問い、弥陀の本願は私一人のためのものであるという自覚を促す言葉としていただくのである。

走る(ウォーキングでもよい)ことの目的はいろいろあろうが、私たちは今日も本願の大地を生き、本願の大地を一歩一歩走り続ける。その大地は走り続ける私一人の前に開かれてくる道であり、世界であると受け取めながら今日も走り続けたいものだと思う。  

 

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