教化センターリーフレットA「今月のことば」−201012月号(282

称名は

 よく衆生の

一切の無明を破す

『浄土文類聚鈔』

 

世間ではお念仏について、何か願い事を叶えてくれる呪文のように考えている場合があります。あるいは恐怖に怯える時に、思わず「南無阿弥陀仏」と口をついて出ることもあります。これらを誤解として退けることは容易です。しかし、むしろよくよく見つめなければならないのは、そうした自身の欲望や感情に振り回されている浅ましい人間の姿でしょう。

 自分の都合良く事が運ぶことを望み、都合の悪いことを受け入れたくないのが、人間のありのままの心情でしょう。ところが人生は、実際には自分の思うようにいかないことばかりです。自我にとらわれて、思うに任せないことを思うようにしようとしていること自体が、私たちの心の迷いを表しています。「無明」とはそうした真実に暗いことであり、仏教では苦しみの原因として捉えられます。

 このように無明の闇の中でもがき苦しむ私たち衆生を、一人残らず救わんと誓いを立てられたのが阿弥陀如来です。親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」の「南無」を「帰命」とする善導大師の解釈に対して、それを「本願招喚の勅命」と押さえられました(『教行信証』行巻)。つまり「南無阿弥陀仏」は、「我が名を称えよ」という阿弥陀如来からの呼びかけといただくことができます。ですから、お念仏は私たちの側から発するものではなくて、一切衆生を救わんとする阿弥陀如来の本願の発現そのものなのです。

 私自身の力ではどうしても克服できない、この自己執着の深い闇を破るのがお念仏です。とは言ってもお念仏を一心に称えたところで、煩悩の火が消え去るわけではありません。お念仏の教えを通して、どこまでも自己中心的な私でしかないという、この身の事実が明らかになるのです。時に愚痴り、妬み、怒りを露(あらわ)にする私。そんな私であっても、ありのままに有り難く受け容れることができるのです。私がこの身このままで救われていく道、すべての人を同朋といただくことのできる世界が、お念仏によって開かれるのです。                        

 

 

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