教化センターリーフレットA「今月のことば」−20111月号(283

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて

往生をばとぐるなりと信じて

念仏もうさんとおもいたつ

こころのおこるとき

すなわち摂取不捨の利益に

あずけしめたまうなり

『歎異抄』

 

私は昭和44年の夏に教師修練を受け、真宗大谷派教師の資格を頂きました。二週間のあいだ講義を聞き、攻究し色いろと話し合ったはずなのに、はっきりと記憶に残っていることはほとんどありません。ただ一つ、閉講式での道場長の名畑以文師の言葉だけが残っています。それは「皆さんはこれから大谷派教師として歩んでいかれます。その歩みにおいて生涯に一人の門徒を育てることができれば十分です。その一人とは、皆さん自身です。」という言葉です。

 その言葉に出あってもう40年が経ちます。私は長い間、その言葉が私の中に残っているのは、深い感銘を受けたからだと思い込んでいました。ところが今になってふと気付いたことは、そうではなくてその時私は反撥を感じたのではなかったのか、ということです。在家から僧侶になる決意を固め、その道を意気揚々と歩み始めようとしていた私は、多くの門徒を育てるつもりですよと、反撥を感じたのではないでしょうか。

 仏道をひたむきに歩んできたつもりの私でしたが、そこにはずいぶん高慢な私が居たことだと今思い返しています。そしてその火は消えることなく今も私の中でくすぶり続けているのでしょう。「たすけられまいらせて」とは、私の気付きに先立っての弥陀の誓願の私への無倦のはたらきかけをおっしゃっているのだと思います。

 親鸞聖人は「摂取不捨」に「摂はもののにぐるを追わえ取るなり。取は迎えとる。」と注を付けておられます。自分の真の姿に気付くことなく、その私にかけられた仏の願いに気付くことない私たちを、見捨てることなくどこまでも追いかけ、ようこそと迎え取ってくださる。名号に託されたそのような仏願力の世界への気付きこそが、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」ということでしょう。そしてその時私たちは、仏法と二人三脚の人生を賜るのではないでしょうか。 

 

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