教化センターリーフレットA「今月のことば」−20113月号(285

さるべき業縁のもよおせば

いかなるふるまいもすべし

『歎異抄』

 

家の者と口論し、ちょっと気にさわることを言われると、それだけで腹が立ってしまいます。さらに重ねて責められると「お前の方が悪い!」と罵倒する言葉が出てしまいます。さらになじられると今度は棺手をなぐり倒したいような心が起こって、自分が自分の恐ろしい心に驚くというような経験をしたことが何度もあります。

世の中には怒りで人を殺してしまう人が時々ありますが、決して特別な人ではないように思います。それは、人生の空虚感や貧困や病気などのやりきれなさの縁が重なって怒りが増大し、ついに殺害にまで奈るのではないでしょうか。私たちは、恐ろしい怒りの心をかかえていて、それを引き出す縁にあうと何をしでかすかわからない、実に危ない存在のように思います。

また、私の心には死にたくない、生きのびたいという自己保身のあくなき執着心があります。昨年秋、ノーベル平和賞を受けた劉暁波さんが収容所に収監されていることについて、北京市内で日本のテレビ局が数人の通行人に「このことについてあなたはどう思いますか」という質問をしましたら、皆「ノーコメント」で逃げてしまいました。おそらく政府の批判をすると自分がひどい自にあうことを怖れたからでしょう。間違いを批判し、あやまれる政府のあり方を正したいという正義心はたとえあったとしても、自分の生活を守るために沈黙し、不正に目をつぶり悪に妥協するという、そういう状況をテレビで見ました。

そして私がもし中国の住人なら、同じような態度をとってしまうのではないかと思いました。日ごろ「私は善人だ、正義派だいと思っていても、自己愛や自己保身の心のために、縁がくれば正義にもとる行為をしかねない私ではなかろうかと危倶します。

ただ、縁によってどんな浅ましい業をさらすかわからぬ私を悲しみ、あわれみたまい「汝、我が名を称えよ、引き受ける」と喚びかけたもう大慈大悲の如来様のみが私に最後の居り場を与えて下さいます。 

 

◆ホームへ