教化センターリーフレットA「今月のことば」−20114月号(286

念仏は

  行者のために

非行非善なり

『歎異抄』

 

「あなたの善意が町をよごす」という看板が、ある市の公園にあるそうです。善意が町をよごす、スッとそのまま頭の中に入ってくる言葉ではありません。ハトのフン害予防の看板だそうです 。

わたしの早朝の散歩コースにもハトの集まっているところがあります。何十羽というハトが、電線の上で、餌を待っています。あたりはハトのフンだらけ。「善意の人」を見かけたことはありませんが、ハトは、朝いつも待っています。善意の人には、町が少しぐらい汚れても、かわいそうなハ卜に餌をあげるほうが大事なのでしょう。

わたしがいま住職をしているお寺の本堂の縁側は、かつてハトのフンで常に汚れていて、行事のときには、まずハトのフン掃除が大変でした。何年もかかって、あの手この手でハト対策をしたので、近年はあまり来なくなりました。あの手この手とは、網を張る、巣を取る・卵を取るなどなどです。善意でなく、自分の都合を最優先にして、悪意でもって対処しました。

「悪人」よりも、いいことを行う「善人」になることは非常に気持ちのいいことです。しかし、いいことをしているという思いからは、周りの人の迷惑が見えてこないのです。そしてなにより自分のしていることの意味に目がいきにくいのです。

「善意が町を汚す」と思いもかけない言葉と現実が出会ったときが、チャンスです。現実がわたしたちに問いかけてくるのです。

わたしの行いすべてを、わたしの善・行にしようという心に、「念仏は 行者のために 非行非善なり」と問題提起される。

親鸞聖人は、「わたしたちは心の中に嘘(虚仮)を抱えているのだから、外に、賢さだとか、善人だとか、努力していますという姿を現すな」と言われます。私たちのすることすべてが「雑毒の善」であると教えられています。斎藤きぬ子さんの言葉です。

他人を責めず 世を責めることなく 今日明日を 大事に生きるが 弥陀の心ぞ 

『歌集 繭と稲穂と童たち』(角川書店)

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