教化センターリーフレットA「今月のことば」−20115月号(287

いずれの行も

およびがたき身なれば

とても地獄は一定すみかぞかし

『歎異抄』

 

まだ私が高校生で「仏教青年会」に所属していた頃、寺の次男として生まれた師が、サラリーマンを辞めて仏教を学ぶようになったきっかけを、「自分は欲深い人間だ。世間の人は『名聞・勝他・利養(三つの髻)』で自分の人生を満足しているのだが、自分はそれでは満足出来ない。だから、仏教を求めたのだ」と述懐されたのでした。しかし、仏教を学ぶということは特殊なことでしょうか?

昭和48年(1973)親鸞聖人誕生八百年に『生まれた意義と生きる喜びを見つけよう』というテーマが掲げられ、諸外国に翻訳して伝えられた。それから25年経った平成10年(1998)、世界保健機構(WHO)から『健康の定義』を「肉体的健康」「社会的健康」「精神的健康」の三つから、もう一つ「スピチュアル(魂)の健康」を増やす提案がなされた。定義を増やす理由は、「『精神的健康』よりもっと深い魂の領域で『自分の存在理由』に対する欲求が湧きあがってくるのです。その内容は『生まれた意義』『生きる意義』『死んだらどうなるのか不安がない』『罪悪感からの解放』の四つを満足することで、人間として生まれた限りには必ず問う問題なのです」と、新聞で説明されていました。

私達の心の中心を自我としている限りは、行きつくところは「我、今、帰る所なく、孤独にして無同伴なり」(源信僧都『往生要集』阿鼻地獄)の世界しかないのです。そうすれば、決して「スピチュアルの健康」になれるはずがありません。

しかし、そんな自我を中心としている私自身に「自我の心に諦めよ」と呼びかけてくるものがあるのです。その事実から「念仏せよ」と呼びかけられて「諦念」(意味は「道理を悟る」)という語句がつくられたのです。

【「諦める」の語源は「明(あき)らかに究(きわ)める、認(みと)める」です】

 

 

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