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教化センターリーフレットA「今月のことば」−2011年6月号(288) 源空が信心も 如来よりたまわりたる信心なり 善信房の信心も 如来よりたまわらせたまいたる信心なり さればただひとつなり (『歎異抄』)
これは、法然聖人ご在世の時、親鸞聖人が「私の信心も、法然さまの信心も一つです」と言われたことで、他のお弟子方から猛反論を受け論争の末に、法然聖人がお答えになったお言葉です。如来を信じて念仏している仲間で、信心の違いということがハッキリしてきたのです。 一般に信心といえば、「私のするもの」と考えます。人間の心でするものなら、能力によって違いがある。能力のある立派な人の信心は深く立派で、そうでない人の信心は浅く劣ると考えるのは当然です。他のお弟子方もそのような立場に立っておられたのでしょう。 しかし法然・親鸞両師は、信心は「如来より賜わる」のだと言われたのです。特に親鸞聖人は、「信は如来の願心より起る」(信巻序)と、如来の本願から信心は起る「他力回向の信心」ということを教えて下さっていました。如来の本願が私のうえに信心として成就したのであって、私のものではない。私の心に起っている信心は、如来のお心である。法然さまのうえに起っている信心も如来のお心である。だから一つであると言われたのです。 もともと一切衆生は、如来のはたらきに支えられ包まれて生きています。でもなぜか人間はそれを知らず、私の都合と慾の計いで生きてしまって、いつまでたっても真に満足も、安心もできないまま流れ去ってゆくのです。 そういう人間の心の深いところに本願がはたらいている。それでは空しかろう、淋しかろう、「我が国に生まれんと欲うて念仏申せ」と促し喚んで下さっている。その願心を聞いて初めて、計い心に迷う私に目覚め、如来のお心を私に賜わるのであります。
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